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「ブッダとそのダンマ」を読んで   平井 満夫

8月 29th, 2010

我々日本人は釈尊の教えを中国から漢字で学んでいる。このことが我々の理解を余計に難しくしていないだろうか。例えば、般若心経に何度も出てくる空とか無という概念は非常に難解である。然らば古代インドの仏典に遡るという道も無論あるが、それはそれとして、現代のインドの仏教徒は釈尊の教えをどう理解しているのだろうか。そんな興味もあって、ふと手にしたのがアンベードカル著「ブッダとそのダンマ」(山際素男訳、光文社新書)である。そうは言っても訳を読むのだから結局は漢字での理解ということになるが、たまたまインターネットで英文の原著が入手出来たので、要点はチェックしてみた。ちなみに邦訳は正確で非常によくこなれていると思う。以下はその読後感の一端である。

まず著者のアンベードカル(1891一1956)という人物、寡聞にして私は実は今回初めて知ったのであるが、インドの政治家である。不可触民の生まれでありながら苦学して弁護士となり、インド独立直後ネルーに招かれて法務大臣となり憲法起草委員会の委員長を務めている。その生涯をかけてカーストの地位向上に尽力し、ガンジーとも時に対立するが、晩年ヒンドウー教でのカーストの開放に絶望し仏教に改宗、此の時五十万人のカーストがこれに従ったという偉大な宗教的指導者でもあった。本書は、常日頃から釈尊の生涯と教えを研究し、晩年の超多忙の中で寝る暇も惜しんで書き上げた正に彼の畢生の書である。

ダンマとは人が生きて行く上での原理とでもいうべきであろうか、「法」に相当する。アンベードカルによると、釈尊のダンマとはニルヴァーナ(涅槃)に生きることである。涅槃とは一般に考えられている臨終の様な状態ではない。涅槃とはもともと「火が消える」とか「消す」という意味からそう受け取られがちだが、釈尊のダンマはそうではなく、生きている人間にもともと燃えている情念、この情念の「焔に油を注ぐな」ということ、「情念を統御する」ということ、即ち情念からの自由を指している。

この「情念からの自由」こそが般若心経でいう空であり、無ではないかと私は思う。そう解釈すると余語老師がよく言われた「無の眼耳鼻舌身意あり」の無の意味と通じる所がある。「心頭滅却すれば火もまた涼し」の様に全く情念を殺すのではなく、統御された情念で、つまり情念から自由になって生きるという意味に解すると般若心経はよく分かる。少なくとも私はそう解釈したい。

アンベードカルはダンマの本質、即ち釈尊の教えの本質は、道徳¦それも民族や仲間内だけに通用する偏狭な道徳ではなく普く人類に通用する普遍的な道徳¦にあると主張する。彼はこう述べている。「ダンマには祈祷も巡礼も、儀式、祭礼、供犠もない。道徳がダンマの本質であり、それなくしてダンマはあり得ない。ダンマの道徳は人間の人間への愛という直線的不可欠さから生まれる。それは神の承認を必要としない。人間が道徳的であらねばならぬということは神を喜ばすためではない。人が人を愛するということは自らのためである。」と。釈尊のダンマは神のための宗教ではない、自分のためのものだと言っている。道徳という人と人との間のルールに本質を見出すのは、社会的存在としての人間に重きを置く仏教観で、そこにインド的なものを感じる。

  常々余語老師から「人間のはからいをはずさないと仏法のことは分からない・・・宗教の風光は道徳ではない」云々と、超人間的というか、自然とのかかわりの中で人間を捉える禅的仏教観に親しんできた者にとっては最初違和感を覚えたが、読み返すうちに切り口は違っても元のところは結局同じではないかと思う様になった。前号に紹介した「悪と往生」に続きこれも一読をお勧めしたい本である。

平成十七年九月発行

感じたままに          白川 正信

8月 29th, 2010

禅とは何かについて前稿にて少し書きましたが、今読み返してみると、これは禅以前の話でした。今年に入って(二月から八月にかけて)いろいろな事が私の身の回りにありました。一番私の心に響いたのが昭和五十四年以来からの同僚から言われた言葉でした。言われた事を要約すると、第一に総て差別で人を見ていること、第二に人の立場にたってものを考えるということが不足している。第三に実行力に欠けるという三点であります。冷静に客観的に考えてみると、その通りであり返す言葉もなかった。更に曰く「お前が禅をやっているというので言うのだが、お前のやっていることは禅でも何でもない。禅の書物を読んで禅が分かったつもりでいるだけだ。」と。

 しかし、言われながら頭の中を去来したことが二つあった。一つは、お前に言われなくともそれ位の事は自覚しているわい。ただ未だに修行が出来ていないだけのことよ。もう一つはまこと人の接し方は難しいということを痛感した。自分が良かれと思ってやったことが逆になったり、普通に話していて少し語気を強めたら怒鳴られたととられたり、人というのは分からない。この点について、お釈迦様も道元禅師もくどい程に言葉には気をつけなさいと言われております。また「愛語よく回天の力あり」ということも言われております。

しかし考えてみれば言葉と行為というのは、その人の「心」のありようの表現であります。そうしてみると、自分で何気なく言っている言葉、何気なく行っている行為等においても十分な注意が必要ということになってきます。人間が己の言動の総てに注意を払うということは凡人には不可能でありますが、可能な限り実行したい。自己弁護は止めて、直すべきところは素直に直していく。それが修行なのだから。 

平成二年から禅の道に入り未だこの体たらく、見性とは程遠い所にいる私でありますが、今年になって少し得たところもありますので次回に書いてみたい。「禅」を志す人間にとって「禅とは何か」とは永遠のテーマではないでしょうか。言い換えれば「自分とは何なのか」でありますから。最後に浄土宗の法然上人のお言葉があります。上人は「念仏申さるるように生きよ」とおっしゃっています。ともかく他のことはよろしいから、ただ念仏申されるように生きよと。これは禅にもあてはまるすばらしい言葉だと思います。もっとも、道元禅師、一休禅師等も言葉は異なるが同趣旨のことをおっしゃっておられます。これからの人生をこのように生きていきたいと思っております。

 平成十七年九月発行

 河頭に水を売る        余語 翠巌

8月 29th, 2010

古語に「河頭に水を売る」というのがある。濁り川のほとりで、きれいな水を売るというようなことではない。水はきれいなものという時代のことである。誰もお金をつかって買うものはいない。無駄事である。余計なつまらぬことである。そこで売られている水というのは、何をいうのであろうか。社会に生い育って来た法律、道徳、文化のたぐいである。生ずべくして生じた事であるが、生ずべくしてというのは、いつのころからか、我の意識が出来てきて、私共の生きているすがたが、ぎくしゃくしてきて、そこに規則をつくって、できたのが、法律や道徳であるから、当然そこに規則が生まれて、云われるように、命の自由がなくなってくるという。団体生活には当然のことであるが、自由な生涯にあこがれるには又別途の道が模索される。

自己のすがたに徹することである。比較の中に生きている世間相場だと、ねたみ、憎しみなどの心にゆり動かされることになるが、自分のすがたに安住してみれば、それはそれという世界である。

河の流れに随って、十分水足りてあるすがたを会得して見れば、河頭に売っている水をほしがらぬ。放てば手に満てりと示されてある。ある人の曰く、「春の野に咲くすみれの花が、美しいとか、役に立つとか云うのは、御自由であるが、それはすみれ自体の問題ではない」と。いつもこのような自由の天地におりたいと思う。 

幸というのは、或は不幸というのは外にあるのではない。そのことの見える心の窓の開けることが、御信心と云うことである。

(昭和五十四年九月) (余語翠巌老師著 「去来のまま」より)

『歎異抄』私の好きな一文  石井 重夫 

8月 23rd, 2010

『すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねにおもひいだしまいらすべし。』(『歎異抄』十六条の中の一文)

『歎異抄』に長年親しんでいますと、時に思わぬ一文に強く惹かれ私の「安心」につながってくることがあります。この一文がそれです。特に『……かしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと……』は、 私の性に合う表現で、好きなところです。
         
 この一文は、親鸞聖人自身の『述懐』ではなく、聖人に親しく接してこられ『歎異抄』を記した「唯円」のしみじみとした「思い」です。 私は上記の一文を含め『歎異抄』中の『往生』を「安心」と、『弥陀』を「 天地いっぱいのいのち(天地の道理)」と受けとめていつも味わっています。

罪悪深重 煩悩熾盛の深~い自覚のうえに、阿弥陀仏を心から信頼しきった聖人の「気概」にはいつも強く私は惹かれています。『歎異抄』をとおしての聖人の過激な『述懐』の真意や、時代の背景を知的にも理解しようと、ささやかに努力もしてきました。しかし、年齢を重ねるとともに、その気力が正直なところ弱くなってきたのを感じます。そんな今の私には「唯円」の一文は、まことにありがた~い一文です。「ありがたい」と 受けとれるのも、余語老師の 過激な、実は天地の道理にそった「法話」に長く親しみ、納得してきたからでは ないかと思っています。
余語老師の「法話」をとおして「 天地いっぱいのいのち 」は、ぼ~っとしていて 、九十九%は合理的には理解出来ない!ものと私は受けとめています。そんなわけで「唯円」の知的な理解を超えた受けとめ方に強く惹かれてしまうのです。同時に『往生』『弥陀の御恩』を『 ……かしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと ……』と心から受けとめる「唯円」をうらやましくもあります。

私も『……かしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと……』と『聖人の過激な 述懐』や「余語老師の過激な法話」の世界にひたっていきたいと願っているこの頃です。     合 掌
(二〇〇九年八月二十四日)

あたり前の不思議さ   余語翠巌

7月 28th, 2010

何もしなくてもものが聞こえてくることをありがたいと思いませんか。
普通のことだからありがたいなんて思わないですか。
私たちはそういう錯覚ばかりしているのです。
平明なところにこそ尊いものがあるのです。私たちは何もしなくても、こうしてちゃんと生きています、余計な心配をしなくても、ちゃんと生きています。こんな不思議なことはありません。ほっといてもちゃんと心臓は動いていてくれるし、鼻は呼吸してくれるし、そんな尊いもの、他にありはしません。よく神通力とか超能力とか余計なことを考えてしまいますが、平明なこと、それが仏性なのです。

坐禅をしている時には、何もしなくてもまわりの音が聞こえています。すべての音がちゃんと間違いなく入ってきます。そのくらい人間の体というものは公けのものなのです。自分の好きな音だけ聞いているというわけにはいきません。音楽でも聞こうという時には、「雑音がうるさい」なんて言う人がいるが、人間の体というものはそんなこととは違うのです。実に公にできています。

それを平明な姿と私は言うのです。あまりあたり前すぎて、あたり前の不思議さに気がつかないから、物欲しくなってくるのかな。そうして物欲しくなった時に、それを泥棒根性というのです。

『十重禁戒』という戒法の中に不倫盗戒というのがあります。泥棒するなというのでしょうが、そんなことはわざわざ戒法で教えなくても誰でも知っています。これは他人の物をとってくるという話とは違うのです。自分がそういう大安心の姿であるということに気がつかないから、もっとどこかに何かあるかしらと泥棒根性が出てくる、それをいましめているのです。殺生戒などその他の戒についてもみな同じことですが、一つもとの意味がわかれば、全部が守れるようになっているのです。戒法というのはそういう成り立ちになっているわけです。

一番の根源は宗教的大安心、それっきりです。一番平明な姿に大安心ができるのです。それがわからないから、流浪の旅に出なければならないのです。それが生死流転だというわけです。まあ、わかるまで苦労しなさいということです。

わかってしまえば何もない、わかったら元の通りだと書いてあります。元の通りなら、はじめから何もしない方がましだけれども、しかし迷いだしたら迷いあぐねて、元に帰るしか仕方がないのです。

修行などということは、精神を病んだ人のための処方箋みたいなものです。平明の中にちゃんと安心がある。宗教の大安心とはそういうものです。平明に生きていく時には、ちやんと調うたままに生きていかなければなりません。

毎日を平明におれたら、それは大したものです。万里一条鉄の平明が保てたら、それで極楽というものです。

余語翠巌著「自己をならうというは」地湧社(1987年)より

夏季禅学会のご案内

7月 21st, 2010

今年も恒例の夏季禅学会が8月19日から開催されます。
下記の要領で申し込みを受け付けています
締め切りは8月10日までとなっておりますが定員になり次第締め切りとなります。

日時:   平成22年8月19日(木)午後1時受付~8月21日(土)午後2時解散(2泊3日)                      
講師:   大雄山山主 石附 周行老師 提唱「従容録」
        大本山総持寺 後堂 栃木県満福寺住職 盛田正孝老師
        演題「現実の中で真実を生きる」
参禅指導: 大雄後堂 山田 順一老師
参加資格: 16歳以上
費用:   15,000円(2泊3日分)
持参品:  着替え、寝間着、洗面具、筆記用具、参禅要典

申込先:  〒250-0127 神奈川県南足柄市大雄町1157
         大雄山最乗寺 夏季禅学会係
         電話 0465-74-3121
         Fax 0465-73-3146
         申し込み書をダウンロードしてファックスして下さい
 
                    

安心のおもむき     平井 満夫

7月 1st, 2010

大雄山最乗寺山門

我々仏教徒が求める究極の安心(あんじん)とはどの様なものであろうか。余語翠巌老師の御著書の中にこんなくだりがある。『辯道ということは、何かを、何かにつぎ足して行くことではない。一切を放下する風光に住することである。自らの意志の力をも放下することである。本証のもよおす所、とあり、仏の方よりおこなわれてとあるように、尚また「坐禅儀」にあるように、心意識の運転をやめ念想観の測量をやめることである。かくてその風光は、真宗の安心と何か通ずるものを漂わせている。真宗と曹洞宗が日本仏教の両極に位して、外見上は共通点がないようであるが、この両極が一致しているように思われる(註1)』

そこで、浄土真宗の中興の祖といわれる蓮如上人(1415-1499)の御文章(註2)から代表的なものを拝読する。

『まづ当流の安心(あんじん)のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。ただ.あきなひをもし、奉公をもせよ。猟すなどりをもせよ。

かかるあさましき罪業(ざいごう)にのみ朝夕まどいぬる我等ごときのいたづらものを、たすけん、とちかひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。

このうへには、なにとこころえて念仏まうすべきぞなれば、往生は、いまの信力によりて、御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏まうすべきなり。これを当流の安心決定したる信心の行者とはまうすべきなり。あなかしこ、あなかしこ。』

文明3年(1471)12月18日

この御文章の中に蓮如上人の全思想がこめられている。浄土真宗の開祖親鸞聖人(1173-1262)の教学は、この御文章に結集されている。上人は乱世に生きる商人、農民、猟師、漁夫など、心ならずも生きるため、人をだまし、生きものを殺すことを職業とする庶民が、念仏によってかならず救われることを教えている。(註3) 世は応仁の乱で麻の如く乱れていた時代のことである。

実は私の家は浄土真宗で、両親も熱心な信者だった。子供の頃、毎夜仏壇の前に座って両親の前で兄弟姉妹が交代でこの御文章をあげさせられたものだが、「門前の小僧」の類で、あまりに身近過ぎて中味を理解しようとはしなかった。殊に、「弥陀如来」というものが何か創作めいた気がして、ぴんと来なかったのである。

後に禅門に入って、余語老師の「天地のいのち」というお言葉をお聞きしてから、ふと「弥陀如来の本願」とは「天地のいのち」のこと、正に仏(ほとけ)のことではないかとの思いに到って分ったような気がしてきた次第。そもそも「天地のいのち」も、この宇宙の根源的なものと言われ、曰く言い難く、捉え難いものではあるが、自然な表現で分かるような気がする。思うに、親鸞聖人から蓮如上人に至る時代、民衆の多くは文盲であったから、「阿弥陀如来」と擬人化した表現の方が一般に分り易かったのであろう。なまじ自然科学を学んだ我々現代人には、この表現は却って分りづらいのではなかろうか。少なくとも私には回り道であった。

さて、老師流にこの御文章を要約すると、「天地のいのちに生かされ、遊ばされている自分の存在に気が付けば、それから後は、有難うございましたと感謝の思いでひたすら念仏を唱えなさい。それが安心の道だ」とでもなろうか。

釈尊は御臨終の際、途方に暮れる弟子達に「自灯明、法灯明」というお言葉を残されたと言われている。結局は自分で道を見つけなさいということであろうか。さはさりながらである。人間は誰かにすがりたい、救って貰いたいと願う弱さが心の中にあると思う。禅宗も浄土真宗も、結局は同じ事が言われているのだが、浄土真宗の言葉には、ぐっと抱きしめて救って頂けるような温かさがあるように感じられる。この辺りの風光を私がとやかく言うよりは、老師に再びお出まし願う方が良さそうである。老師はこう述べておられる。

『私の味わっている仏教というものは、広やかな世界に遊び得ることである。されど人の世にあるかぎり、浮き世のつとめの絶えることはない。その浮き世のつとめが時に間違い、時に喜び、時に悲しむことであっても、それをそのままにゆるやかに受けとって行く。

いつの日か春の落日の中にあつた思いが、いっしか、それはそのままに落ちついている。はかなさも、相すまぬ思いも、ともに自分の個人的恣意であることに気がつき、それはそのままにゆるやかな世界に遊戯することである。煩悩を断じて菩提を得るという。
煩悩とは一体何であるか。人々は自らに問うたであろうか。身体あるかぎり、人間はそれを超えることはできぬ。通用語でいえば、迷いながら悟っている。迷いが迷いのままで落ちついている。どうこうしようという自らの思惑をすててお任せすることであろうか。仏の慈悲の手という意味はどんなことか、道徳的な世界に停滞することなく、人を責める思いを脱して、抱きとるというような思いであろうか。

禅門と浄土門の異同を説く人も多いが、異同があってもなくても、所詮は人間のいとなみを超えて、お任せすることであろう。禅門の良寛さんが「南無阿弥陀仏」を唱えておらるるを難ずる人は、この開かれた世界を知らぬ人であろう。人間の哀歓すべてが開かれた世界の荘厳である。かつての日の自分のすがた、それは、おそらく万人のすがたと思われることであるが、それが一つの無駄もなく凡て抱きとられてある世界であることに気がつく。(註1) 』

そう言えば、先年翠風講の旅行会で良寛さんのお墓にお参りしたが、それは禅宗のお寺ではなく、隆泉寺という浄土真宗のお寺にあった。
                  
(平成22年1月)

(註1)  余語翠巌著「去来のまま」より
(註2) 西本願寺の読み方、東本願寺では「おふみ」と読む。
(註3) 笠原一男著「乱世を生きる 蓮如の生涯」より

正しい行いとは       平井満夫

4月 24th, 2010

前回の拙稿「生きていてこそ仏」で、お釈迦様の次の様なお言葉、「私が求めているのは、どうすれば人は心安らかに生きて行けるのか、そのためには何を実践すればよいのか、正しい行いとは何かということである」を紹介し、そこに仏教の本質があるのではないかと書いた。   しからばその実践すべき「正しい行い」とはどの様な行いなのか。  悪人だって救われると浄土真宗では教えている。  親鸞聖人の「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人おや。」というかの有名な「悪人正機」のお言葉が、親鸞の弟子唯円坊がしるした「歎異抄」に述べられている。  悪人も救われるならば「正しい行い」にどれ程の意味があるのであろうか。  善悪を超越したところに宗教の風向があるとはいえ、我々の日常生活に於いて善悪の問題は常に眼前につきつけられた切羽詰った問題ではないだろうか。

さて、「正しい行い」を知るには先ず悪とは何かを知らねばならない。  「私は悪いことなんかしていない」という人も、それは法律を侵す様な悪いことはしていないだけのことで、例えば生き物を殺すという悪をしていない訳はない。  魚は口にしないという人も穀物や野菜なしには生きて行けない。  小松菜だって生きている。  この悪という大きな命題を現代の視点で正面から取上げた書物は意外に少ない様である。  そんな中で私は最近、山折哲雄著「悪と往生」(中公新書)を読んで、新しい視点を教えられた思いである。  その内容を私なりに要約してみよう。

例えばオウム真理教の麻原彰晃の様な真の悪人でも救われるのであろうか。  否である。  親鸞聖人の書かれた「教行信証」によれば、悪人でも救われるには次の二つの条件が無ければならない。  一つは「善知識」即ち善き教師につくこと。  二つには「懺悔」つまりその善き師について深く悔悟することである。  この二条件をクリヤすることではじめて、「大無量寿経」にある鉄鎚の様な除外規定、即ち、救われる者から次の者は除くという規定唯除五逆誹謗正法(ただ五逆罪を犯した者と仏法をそしる者は除く)を乗り越えることが出来る。  これこそが、人間悪の問題を根元的に思索し、悪人救済の課題をつきつめて考え続けた親鸞聖人がたどりつかれた結論である。

悪人正機のみを書いて、この善知識と懺悔の問題について一言半句もふれていない「歎異抄」の著者唯円は、親鸞聖人の愛弟子の一人であったに違いないが、結果的に師を裏切っている。  そして「歎異抄」の持つ甘い毒の妖気に明治以後の学者も侵されてきた。  曰く、清沢満之、倉田百三、金子大栄、西田幾多郎、田辺元、みな然りである。唯円のしたことは、キリストを師と仰ぎこよなく敬愛しながら、そのキリストを裏切ったユダに似ている。

この様に、救われるべきでない悪人を指弾しなかった「歎異抄」の著者唯円を、この著者は舌鋒鋭く批判している。  「正しい行い」の方向性はこの批判から自ずと明らかになる様に思われる。  関心のある方には一読をお勧めしたい本である。

それにしてもである。  日本の社会は法律上の犯罪者、「悪人」に寛容過ぎるのではないだろうか。  凶悪犯罪が横行する昨今につけても、私はそう思わざるを得ない。

平成16年9月 ニュースレター10号

生きていてこそ仏(ほとけ)          平井満夫

4月 24th, 2010

「宗教というものは学問とは違う。  あんた自身はどう思うかというのが宗教だ。  キリスト教ではこう説いています、仏教ではこう説明します、ということではないのだ。  あんた自身の心にとってどうなんだというのが宗教だ。  このところを本末転倒すると仏教学栄えて仏教亡びることになる。」余語翠巌老師は常々そうお話しになっておられた。  ではこの私にとって仏教とは、ということについて少し書いてみたい。

今年の春の翠風講の総会での話し合いでは、前号のニュースレターの武田さんの文章にあった「あの世のガイドブック」という言葉がひとしきり話題になり(この言葉自体新鮮な語感があると感心した)、その会話の中で古川和子さんがこんな話をされた。  「私がある時、余語老師に〈御前様、あの世はあるのでしょうか?〉とお尋ねしたところ、しばらくお考えになっていた老師は、〈お任せじゃ。〉と一言おっしゃった」と。  このお話しは私には非常に印象深かった。

それにつけて思い当たるのは古代仏典(前田専学著「ブッダを語る」NHKテキスト)にある「毒矢のたとえ」でのお釈迦様のお話しである。その部分を分かり易く現代流に翻訳すると、ざっと次の様な話しになる。

ある時、お釈迦様に「霊魂は不滅でしょうか?あの世はあるのでしょうか?」と問いかける者がいた。  それに対してお釈迦様は次のようにお答えになった。  「あの世はあるかも知れない、無いかも知れない、私はそういう問いにはっきり答えないし、そういう議論に興味も無い。  何故ならそんな問題を百年議論していても結論は出ないからである。  私が求めているのはそんなことではなく、どうすれば人は心安らかに生きて行けるのか、そのためには何を実践すればよいのか、正しい行いとは何かということで、それらについてははっきりお答えしよう。」

私はここに仏教の本質があると思う。  一般的には仏教は葬式仏教とか言われて葬式、故人の法事や墓参など、死んだ人を供養する古臭い宗教、言わば人を「あの世」に導くのが仏教の役割のように思われがちである。  しかし、それが本質的なものではないことは前述のお釈迦様のお言葉からして明らかである。  そもそも仏教はこの世の成り立ちからしてキリスト教や他の宗教の様に創造の神を作ったりはしない。  この現実の存在を「如是」―よって斯くの如しーと言うのみである。  問題を―今ここに生きている自分―という現実の一点にしぼり、いかにすれば人は苦しみから解放されて心安らかに生きて行けるか、そのためには何を実践すればよいのかを説くのである。  生きていてこそ仏というべきか。  本来の仏教は、空疎な想像や議論を超越した極めて現実的、実践的な宗教だと思う。

「あの世はあるのですか?」という問いに対する、「お任せじゃ。」という余語老師のお答えにはそれらの全てが包含されていて、実に意味深いお答えだと思う。  また、「死んでから仏になるなんて、そんな呑気な話しではないのだ。」と言われたお言葉が思い出される。

平成16年9月 ニュースレター9号

道了尊首都圏御開帳

4月 24th, 2010


道了尊首都圏御開帳のご案内

場所 : 両国国技館
日時 : 平成22年11月3日(文化の日)
入場料: お一人様 3,000円
内容 : 1.世界平和祈祷
     2. 法話(石附周行山主老師)
     3. 加山雄三&ハイパーランチャーズコンサート

ご開帳とは
大雄山最乗寺の御真殿(祈祷所)に祀られた道了大薩埵のお厨子の扉は、毎年正月、五月、九月の28日早朝のみ開かれる慣例で、これをご開帳と申します。それ以外の日はこの扉は閉められており、余程の機会が無い限り開きません。

今年は当山の御開山さまである了庵慧明禅師がお亡くなりになって六百年の節目の年であり、禅師さまの元で多大な働きをされた道了さまにとっても重要な年にまります。今年のご開帳は、了庵慧明禅師六百年大遠忌が開催となる五月十二日から、古札のお焚きあげとなる清浄鎮火祭が終わる十一月二十八までの長期間行われます。
特に十月三十日には道了さまが御真殿より八十年ぶりにお出ましになり、首都圏をご巡錫され両国国技館でのご開帳となります

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